2001 RUNNERS AWARD 第14回ランナーズ賞

  • HOME »
  • 2001 RUNNERS AWARD 第14回ランナーズ賞

2001年 第14回ランナーズ賞受賞者

特別な人が行うスポーツから誰もが行えるスポーツへ―ウルトラマラソン普及に努めるパイオニア―

海宝道義さん

海宝道義さん

国内外で開催されているウルトラマラソンの10大会で、主催者や呼びかけ人となるなど、ウルトラマラソンの普及に努め、ウルトラ愛好者の間では、広くその存在を知られている。海宝さんがランニングを始めたのはメニエール病(自律神経の失調によって起こる症候群)克服のため医者から勧められたことがきっかけ。その後、第2回サロマ湖100kmウルトラマラソン完走を機に、自分が求めていた「ゆっくり長く」というランニングスタイルがウルトラの世界にあることに気づき、数多くのレースに出場する。
大会を主催するようになったのは、94年、95年とトランスアメリカフットレース(4700km)に出場した時に、一緒に出場しているランナーや、サポート、応援の方との交流の中で、「苦しみを楽しみに変えることができた時の充実感」を感じたことからだった。ウルトラマラソンならではの、その素晴らしさを日本でも広めたいと強く思うようになり、自ら大会を主催するようになっていった。
海宝さんの主催する大会では、制限時間は設けてはいるものの、ゴールを目指す意志のあるランナーがいる限り、いつまででもゴールをあけ、海宝さんは、トップから最後尾まで全てのランナーのゴールを出迎えている。
「ゴールの瞬間は、順位やタイムに関係なく、全てのランナーがとても良い表情になるんです。そんなランナーの輝いた顔を見ることができるのは、主催者にとって最高の贅沢だと思ってます」と語るが、早朝スタートのレースで、最終ランナーのゴールが午前0時を回ることもある。
そこまで海宝さんがこだわるのは、年齢や性別に関係なく、ウルトラマラソンを大勢の人に楽しんでもらいたいという理由からだ。
「ウルトラマラソンは、年齢を重ね、いろんな経験をしてきた人ほど、良い1日をランニングと共に過ごすことができる生涯スポーツだと思うんです。だからこそ、制限時間に縛られることなく、誰もが完走できる大会を作り続けていきたい」

海宝 道義(かいほう みちよし)

1943年生まれ。33歳の時、メニエール病克服のためランニングを開始。少しずつ走る距離を延ばして、89年にサロマ湖100kmウルトラマラソンを完走。以来、ウルトラの魅力に取りつかれ、数々の大会に出場する。94年、95年には、64日間で4700kmを走るトランスアメリカフットレースを完走。現在は「海宝ロードランニング」代表として、国内外のウルトラマラソン10大会の運営に取り組んでいる。

「ネパールに学校を建設しよう!」 全長500kmをボランティアリレー

日本横断リレーマラソン

日本横断リレーマラソン

「ネパールに学校を建設したい」――。前校長・田中絋人先生の願いを長吉高校の教職員が知ったのは1997年。田中さんがこの世を去った年だった。中国の南、インドの北側に位置するネパール。学校施設や教材の不足、児童就学率や識字率の低さなど、ネパールを取り巻く教育環境は深刻だ。
「走ることを通して、生徒たちと一緒に何かをできないだろうか」、「自分たちの好きなことが人の役に立てないだろうか」
もともと走ることが好きな長吉高校の教職員たちは考えた。志半ばにこの世を去った田中先生の遺志を継ぐため、1998年の夏、ネパールに学び舎を作るための寄付金を集めるために、和歌山県潮岬から奈良、大阪、兵庫を経て京都府経ヶ岬までの約500kmをタスキでつなぐ「日本横断リレーマラソン」を実施。同校の有志教職員、生徒、卒業生、保護者のほか、この企画を聞いた他県の有志ら延べ400人以上が応援に駆けつけ、見事走破。この年集まった寄付金は、3校もの小学校建設に結びついた。
しかし、ネパールでは学校が完成しても肝心の学ぶための学費が足りず、就学できない子どもたちが大勢いることを知り、その奨学金を募るため、1999年と2000年の学園祭で「24時間チャリティーリレーマラソン」を実施、集まった寄付金で「長吉スカラシップ」を創設、毎年10人ほどの子どもたちに奨学金を贈った。
そして2001年の夏、再び「日本横断リレーマラソン」を実施。前回と逆のコースをたどり、完走。150万円の寄付金は無事にネパールへ贈られた。
代表の富田年久先生は「このリレーマラソンに参加した女子生徒から『人のつながりを大切にできる社会人になりたいと思う気持ちが芽生えた』という感想をいただきました。最初は何も考えずにこのリレーマラソンに参加していた子どもたちも、自分が走ることで多くの人に勇気や希望を与えることができるのか、身をもって感じることができたことでしょう」
それでもネパールではまだまだ学校が足りない。小学校でも1000校は必要だ。
「日本横断リレーはまだ6年目。私たちのやるべきことはたくさん残っています」
長吉高校の「心のリレーマラソン」はまだまだ続く。

日本横断リレーマラソン

大阪府立長吉高校のランニング好きの教職員を中心に、「走る」ということを通してボランティア活動を行うという取り組み。95年、96年、そして99年、 00年には学園祭で「24時間チャリティーリレーマラソン」を実施。98年、そして今年の8月には、「ネパールに学校を作る」ことを目的に、和歌山県潮岬と京都府経ヶ岬までの約500kmをタスキでつなぐ「日本横断リレーマラソン」を実施した。同校の有志教職員、生徒、卒業生、保護者のほか、この企画を聞いた他県の有志ら延べ400人以上が参加した。

学生時代に欧州3000kmを61日間で走破 その後もランニングに関わり続けた3人の男たち

羽生敏昭さん、雨宮輝也さん、野村隆平さん

羽生敏昭さん、雨宮輝也さん、野村隆平さん

ギリシャ・マラトンの丘~パリ・凱旋門まで欧州3000kmを、61日間かけて走破した男たちがいた。1ドルがまだ360円、海外旅行が自由化になって間もなく、当時誰も思いつかないことを計画、そして実行したのが、羽生さん、雨宮さん、野村さん。今から35年前のことである。
「東京学芸大で保健体育専攻の私たちは、単なる旅行ではなく、『連日長距離走が体力にいかに影響を及ぼすか』をテーマに、自分たちの身体を使って卒業論文の資料を集めることが目的でした」と羽生さん。
陸上部の羽生さん、雨宮さんに、柔道部で旅行好きのマネージャー役、野村さんという強い味方が加わった。
「計画から実現まで2年かかりました。体力と時間はあったがお金がない。学業とトレーニングの合間を縫って、アルバイト、スポンサー探し、そして計画作りに奔走しました」
66年7月18日、数々の困難を乗り越え、ついにマラトンの丘のスタート。厳しい暑さに見舞われながら、羽生さん、雨宮さんが交代で1日約50kmを走る。伴走する車には、旅行計画、予算管理をする野村さん。
「走ることは決して苦しいことではありませんでした。毎日血圧、脈拍、脚の太さの変化、ペースなどを調べながら、ユースホステルやキャンプ場で夜を明かし、各国の人と交流を深める旅。そして9月16日には感激のゴールを迎えることができました」
卒業後、3人は別々の道を歩む。
「自分の健康作りはランニングから、という気持ちがいつもありました」サロマ湖100kmマラソンに12年連続出場中の羽生さんは、中学校の教員として 30年間務め、この春からみつばち蜂針健康院を開設。お年寄りの健康作りの奉仕活動を行っている。日本体育協会スポーツ科学研究所の所長として活躍中の雨宮さん。
「ホノルルマラソンには15回連続で出場しています。仕事としてではなく1人のランナーとしてたくさんの友人に出会えたことが財産です」
2人に比べると、一番ランニングの世界に縁遠かったと語る野村さんは、暁星小の教頭を務めている。
「身近にいた者として、走ることの素晴らしさ、欧州で経験したことを子どもたちに伝えてきました。運動が好きになる、走ることが楽しくなるように指導するのが私の役目です」

羽生 敏昭(はぶ としあき)

1944年生まれ/雨宮 輝也(あめみや てるや)1942年生まれ/野村 隆平さん(のむら りゅうへい)1943年生まれ 1966年7月。当時東京学芸大学の4年生だった3人がギリシャ・マラトンの丘からフランス・パリの凱旋門まで 3000kmを61日間で走破。この旅は、自分たちの身体を使って『連日長距離走が体力にいかに影響を及ぼすか』をテーマとした研究資料を集める目的もあった。卒業後、3人は別々の道を歩むが、ランナー、研究者、そして教育者として、その後もランニングに関わり続けている。
PAGETOP
MENU