2004 RUNNERS AWARD 第17回ランナーズ賞

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2004年 第17回ランナーズ賞受賞者

40代で失明した苦境から脱出、夫婦で47都道府県のレースを制覇した

和田彰・紀代子さん夫妻

和田 彰・紀代子さん夫妻

会社勤めをしていた和田彰さんが視力に異常を感じはじめたのは45歳ころだった。少しずつ視力が落ちてきて、47歳で伝票も読めなくなり、退社。しばらく家に引きこもって、どんどん新聞の字が読めなくなる日々を悩み苦しんでいた。やがて、50歳から視力障害者支援センターで生活訓練を始め、所沢の国立身体障害者リハビリテーションセンターで鍼灸マッサージの訓練を受けた。
センターの運動場でわずかに残る視力で白線をたどりながら走りはじめたのがマラソンとの出会いだった。やがてJBMA(日本盲人マラソン協会)の存在を知り、入会。そのマラソンツアーに参加するようになり、しだいに伴走者も増えて、レース経験も積めるようになった。
平成4年から錦糸町のセントラルスポーツフィットネスクラブの治療室に勤務するようになり、レース参加にも拍車がかかった。6歳下の紀代子夫人はまったくランニング経験がなく、練習では自転車で伴走していたが、危険なので一緒に走るように和田さんが懇願した。100m、300mと少しずつ距離を延ばしていくうちに、レースでも伴走できるようになった。「今ではフルマラソンまではオカーチャンの方が優位」と和田さんは言う。
できるだけ初めての場所でのレースを選ぶうちに、いつかほとんどの都道府県を訪れたことになった。また、新設レースの第1回や、2度とない記念レースを見つけて参加した。佐賀空港開港記念マラソン、平安遷都1200年国際ハーフ、日蘭交流400周年記念長崎333マラソン、そして、テレビにも映った第1回荒川市民マラソンだ。
大栄町すいがながいもマラソン、四万十川60kmマラソン、盲人マラソン小田原大会では選ばれて選手宣誓をしたので思い出深い。海外のホノルルマラソンにも参加したし、100kmマラソンにも挑戦した。しまなみ海道100kmマラソンでは朝5時に福山をスタートし、瀬戸内海の6つの島を走り抜け、夜中の 12時33分に今治城にゴールインした。それまでスタッフの人たちが待ち受けていてくれたのが感激だった、と和田さんは言う。
この間、平成8年に大腸癌、13年には盲腸癌で手術し、体力走力の著しい低下を克服するための試練も乗り越えた。
そして、平成15年4月29日、秋田県大館市の「第51回山田記念ロードレース」が和田夫妻にとって記念の日となった。全国47都道府県のマラソン制覇の達成に、和田さんが尊敬する山田敬蔵氏とともに走るレースを選んだのだ。
走りながら、この一歩一歩が全国を走ってきた最終レースの一歩であると思うと、感慨深いものであった。路辺の多くの声援も嬉しい。ゴールのグラウンドに来ると大きな拍手が沸いた。やっと長年の目標を達成することができた。これで全国制覇したという感激が全身に伝わった。「マラソンと人生の伴走者である妻にも感謝である。私は恵まれていました」そう和田さんは書き記している。
70歳になった今年6月、妻の伴走による郡山24時間リレーマラソンで念願の100kmを完走。そして、勤務先を退職し、悠々自適の身となった和田さんはJBMA東京支部長、フルマラソン長寿健走回副会長として盲人のためのマラソンと還暦以上のランナーの普及に力を注ぎ、生涯目標としてフルマラソン100回をたて、さらにスキー場全国制覇にも挑戦中だ。和田夫妻にとってゴールはまだまだ先にある。

和田 彰(わだ あきら)

1934年、東京都生まれ。40代後半で失明してから走り始め、マッサージ師として勤務のかたわら全国のマラソン大会に参加し、現在JBMA(日本盲人マラソン協会)東京支部長、フルマラソン長寿健走会副会長。マラソンの他、スキー、社交ダンス、合唱、民謡、短歌など趣味も多く、積極的な人生を歩む。

和田 紀代子(わだ きよこ)

1941年、東京都生まれ。エアロビクス、ピアノが趣味。

地域の人たちに 「生涯スポーツ」の楽しさを 自ら実践して伝える

藤岡經子さん

藤岡經子さん

「歳をとると友人が少なくなると言う人がいますが、私は逆に年々仲間の輪が広がっていきます。人生でこんなに楽しいことはないですね」
平日は毎日、障害者施設の「かしわい苑」で勤務。毎週木曜日の夜には、近隣の小学校で50歳以上の人を対象にした「健康づくり教室」の指導を行う。週末は、ウォーキングをはじめ各種スポーツイベントの企画立案、運営に携わり、講演、自身の勉強やトレーニング等と、スケジュールはぎっしり埋まる。
「元気で長生きするために、たくさんの人に生涯スポーツの楽しさを知ってほしい。自分の都合のいい時間にでき、そしてゆっくりでも誰の迷惑にもならない。やっぱり私の一番のおすすめはランニングですね」
藤岡さんが走り始めたのは、結婚して家庭に入ってから。開業医のご主人のもとで看護師等の仕事、さらに家事、子育てに追われていたが、もともとスポーツ好きで学生時代は短距離選手。健康のために何か始めようと、忙しい時間の合間を縫って、近所を歩いたり、走ったりするようになったのがきっかけだった。
「患者さんや近所の人たちが、『藤岡先生の奥さんがやってるなら、身体にいいはずよね』と評判になり、どんどん仲間が増えてきたんです。これはしめた! と思いましたよ」
当時は、地元の市川元旦マラソンに参加できるのは男性だけの時代。
「『記録もゼッケンもいらないから走りたい』と申し出て、女性参加者の第1号になりました。そこから女性に門戸が開かれたんです」
有名選手が走るより、「ご近所の藤岡さん」がニコニコ笑顔で楽しそうに走る姿を見た方が、「だったら自分にもできるんじゃないか」と感じる人がいるはずだ。「生涯スポーツ」という言葉もまだ一般的でなかったころから、藤岡さんは自ら実践することでスポーツの楽しさを周囲に伝えてきた。
同じころ、市川市から体育指導委員を委任される。以来、続けてきた活動は34年にも及ぶ。
自身のランニングに転機が訪れたのは86年のこと。次男の英樹さんに誘われて、ホノルルマラソンに出場。初めてフルマラソンを完走した、その達成感に魅了され、その年からホノルルは18年連続、またヨロンマラソンには12年連続完走中。その他、海外マラソン等を含めると、今年のホノルルで40回の区切りを迎える。
「でも回数やタイムにこだわりはありません。フルマラソンを走るには、1年間きちんと自己管理した生活を送る必要があります。それを積み重ねた結果だと考えています」
助産師、看護師、鍼灸マッサージ師の資格を持ち、誕生から老人介護まで、ライフステージの全ての場面についての知識を持っていることも、スポーツの指導をする上で大いに役立っているという。
「やっぱり染みついた体質でしょうか。レース中でも、座り込んでいる人や脚を引きずる人をほっとけないんですよ。ケア用品をたくさん持って走るので、息子には『リュックでも背負えば』なんて言われてます」
昨年、新たな資格として文部科学大臣認定スポーツプログラマーを取得。もちろん受講者では最年長。
「でも、実習のエルゴメーターテストでは私が一番。みんな驚いていました。まだまだやりたいことがいっぱいあって、取り組むまで1年も2年もじっくり考えるのですが、決心がついたら驀進するタイプです」
夢は、何年か後に「南極マラソン」に出場することと、時間ができたらピアノのレッスンを一からやり直すこと。若さの秘訣は「みんなが見ていてくれるから」。明るく溌剌とした藤岡さんの姿が、たくさんの人に元気を与え続けている。

藤岡 經子(ふじおか けいこ)

1931年、長野県生まれ。独身時代に助産師、看護師、鍼灸マッサージ師の資格を取得。開業医のご主人と結婚後も、看護師、助産師として働く。70年に市川体育指導委員となり、現在まで34年間に渡って活躍。71年、市川マラソンクラブ発足時からのメンバーでもある。ランニングだけでなく、各種スポーツに取り組み、現在も20歳当時の体重を維持。

女子マラソンのパイオニア 「歓走」を目標に走り続ける

松田千枝さん

松田千枝さん

1979年の第1回東京国際女子マラソンに出場して以来、今年で23回目の同大会出場となる(欠場は3回のみ)。99年からは娘の玲さんも一緒に出場し、母娘での参加も6年目になった。松田千枝さんは東京国際女子になくてはならない「顔」であり、女子マラソンのパイオニアである。
走り始めたのは27歳のとき。きっかけは夫の泉さんがランニングを始めたことだった。当時、育児を分担しながらフルタイムで会社(資生堂)勤務を続けていた松田さんは、「身も心も落ち着き、自分自身の時間を感じる」ことのできるランニングが好きになる。走友に誘われて参加した5kmレースで女子1位になったことを境に、毎日、近所の公園に出かけて走るようになった。『月刊ランナーズ』が創刊したこの年、まだ女性のランナーはごく少数であり、最初のころは近所の人に見られるのが恥ずかしかったという。
77年、青梅マラソンで初めての30kmレースを走り、次はフルマラソンと心に決めていたが、その年に第二子を身ごもった。妊娠中に走り続けた人は日本に1人もいなかったが、医師に相談し、夫の理解もあって、臨月まで無理のない範囲でトレーニングを続けた。子供を無事出産すると、翌年の福井マラソン(初マラソン)を3時間12分で走っている。
第1回東京国際女子マラソンでは3時間2分51秒で21位(日本人5位)という結果だった。あと一歩で3時間を切れなかったことが悔しく、第2回大会は精一杯の準備をして望んだが、またしても3時間の壁をやぶることができなかった。不調の原因は貧血にあった。女子選手の貧血の問題は今でこそ常識だが、当時は何も参考資料がなく、手探りの状態。専属コーチである夫の本業が研究者であり、血液の勉強をしていたことが救いだった。
栄養と休養、そしてトレーニングのバランスが見えてくると、松田さんの記録は向上していく。34歳の第6回東京国際女子マラソン(84年)では2時間38分51秒をマーク、その翌年には2時間36分38秒の自己最高記録で4位に入った。
86年には、松田さんを中心とするメンバーで「資生堂ランニングクラブ」が発足。会社にも活動が認められ、ソウルオリンピックを目指す体制が整うが、この後、原因不明の左足かかとの痛みに悩まされる。完治するまでに3年もかかり、結局、2年連続で東京国際を欠場しなければならなかった。しかし、3年ぶりとなった89年の東京国際では、2時間49分45秒で見事に復活。ゴールでは満面に笑みを浮かべ、再び走れるようになった喜びを全身で表現した。
現在も毎朝1時間のランニングを日課にし、時間があれば夕方にも1時間走るという生活。56歳の今もサブスリー(フルマラソンで3時間を切る)の走力を維持するので、記録のことばかりが注目されてしまうが、本人の興味はまた別のところにあるようだ。
松田さんは「走りの美」を表現したいと考えている。いかに美しく走るかというテーマに、全神経を傾けているのだ。故障で苦しんでいた80年ごろから動きのレッスンをしてくれている中村多仁子先生には、今でも東京国際の前にフォームのチェックをお願いしている。今年になって、中村先生とまた新たな取り組みが始まった。それは日本の古典芸能である「地唄舞」の動きをランニングに取り入れること。「地唄舞」のように無駄のない、美しい動きで走る。それは美しい走りの追求であると同時に、衰えゆく筋力をカバーする走りの創造でもある。自分のランニングを芸術的な動きにまで高めたいというのが、現在の一番の目標だ。
また、「走りの美」を表現するもう1つの方法があるという。美というものには基準がないが、誰もが美しいと思えるものに気づいたのだ。
「それは喜びです。最高の喜びを表現して走ったら、美的でもあるし、誰が見てもすごく心地よいし、共感していただける。本当に喜んで、最高に嬉しいんだよという気持ちで走れば、みんな自分も楽しくなって、嬉しくなってしまうんじゃないかと思うんです。だから、歓喜の歓という字をとって『歓走』を目標にして走っています」

松田 千枝(まつだ ちえ)

1948年、静岡県生まれ。66年に資生堂静岡販売会社へ入社し、71年より本社勤務。79年に始まった東京国際女子マラソンには最多出場。82年には、ハワイ・インターナショナル・トライアスロン(ロングディスタンス)に初出場。トライアスロン参加日本女子第1号となる(女子46人中14位)。夫の泉さん、長女の玲さん、長男の大さんの4人家族。
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