2016年 第29回ランナーズ賞受賞者
市民ランニングの普及、発展に貢献した人物、団体などを表彰する第29回ランナーズ賞の受賞者が決定しました。
1988年に第1回のランナーズ賞受賞者を称えて以来、今回までに89の個人、団体が受賞。今回は、中野陽子さん、平田久雄さん、陳傳男さん、和田伸也さんが「ランナーズ賞」に輝きました。
選考にあたって
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックも終わり、4年後はいよいよ東京大会です。レガシー(遺産)を残そうと、スポーツ振興の施策が全国各地で盛り上がっています。そんな中、第29回ランナーズ賞の受賞者は、強化、健康増進、国際交流の面で、そのまま2020年のレガシーになるような御三方です。
中野陽子さんは70歳からランニングを始めて10年。80歳でもフルマラソンを4時間16分台で完走しています。選考委員らも脱帽、健康長寿のお手本です。中野さんのチャレンジ精神は周りのランナーのみならず、“職場”の老人ホームの皆さんにも勇気を与えています。
平田久雄さんと陳傳男さんは、ランニングを通しての国際交流で大きな成果をあげられました。正式な国交のない台湾と民間外交を続けて、スポーツの魅力を最大限に発揮。メディアを巻き込みながら多くの人に知ってもらうことで、社会に大きな影響を与えました。「そのバイタリティはランニングを愛する者同士の深い心のつながりがあったから」と、選考委員らの意見です。
そして和田伸也さんは、今年9月のリオパラリンピックで1,500m、5,000m、フルマラソンの3種目全てで入賞を果たしました。800mからフルマラソンまで、全盲クラス(T11)の日本記録をすべて保持。和田さんが素晴らしいのは、練習パートナーを積極的に探しているところ。通勤時に約100人の市民ランナーに連絡をしてスケジュールを調整。自ら困難な道を切り拓いています。それを支えているのが「賀茂川パートナーズ(ここで奥様との素敵な出逢いもありました)」と「長居わーわーず」。「日本代表選手を市民ランナーが支えた共同受賞といってもいい」と、選考委員の皆さんと意見がまとまりました。
今年も、また大型の市民マラソン大会が誕生しましたが、主催者の熱意や独自性、地元市民の協力がないと、長続きしません。今回受賞された御三方の熱意や創意工夫から学ぶことは多いでしょう。受賞、おめでとうございます。
生きるレガシーに乾杯!
ランナーズ賞 選考委員会委員長 増田 明美
71歳でマラソンデビュー 世界記録を出すのが今の目標
中野 陽子さん(80歳・東京都大田区)
「ケガや故障をしたくないので、月間走行距離は200kmに抑えようと思うのだけれど、気がつくと260kmくらいになってしまうわね」
自宅近くの多摩川河川敷を軽やかに走る中野陽子さん。身長152cm、体重40kgの小柄な身体で、現在、フルマラソンの世界記録(※)を狙っている。
1935年(昭和10年)生まれの中野さんが走り始めたのは70歳の時。それまではスキーに夢中な人生だったが、体力的なこと、経済的なことを考えて何か他のスポーツをやろうと思っていた。その時、陸上部出身の甥にホノルルマラソン参加を勧められたのがきっかけだ。
「基礎がなにより大事」と考えた中野さんは、ランニングスクールに入り、教えられた通りのメニューで練習を積んだ。初マラソンの結果は4時間44分44秒。2年後の湘南国際マラソンではサブフォーを達成(3時間56分46秒)。年齢を考えると驚くばかりの記録だが、その進化は81歳になった今も続いている。
「今年(2016年)の東京マラソンでは、フルの世界記録(4時間12分44秒)を抜くつもりでした。2015年の横浜マラソンを4時間11分50秒で走ることができていたので自信を持って臨んだけれど、後半になるとスタミナがなくなり最後まで踏ん張ることができませんでした。世界記録に3分16秒及ばず、悔しいですが、それが今の実力。来年こそ世界記録を出したいと思っています」
※マスターズ陸上(80~84歳の部)
なかのようこ●中学を卒業後、現セイコーホールディングスに入社。当時社内で流行っていたスキーを始める(準指導員資格を取得)。28歳で洋裁学校に通い始め、その後パタンナーとして麻布のブティック「マドモアゼル」に勤務。55歳の時に自身の洋品店を持つ。走る時に愛用しているオレンジ色の短パンは、ランニングクラブのTシャツを得意の洋裁で仕立て直したもの。現在週に2~3回、老人ホームのリネン係として働いている。
マラソン交流で築かれた沖縄と台湾友好の輪
平田 久雄さん(66歳・沖縄県那覇市)、陳 傳男さん(62歳・台湾)
年齢も近いふたりが、沖縄と台湾のランニングを通じた交流を続けて13年になる。出会いは偶然だった。
「2004年2月のおきなわマラソンの後夜祭で、中国語が聞こえてきたんです。それが陳さんでした」
平田さんは高校卒業後に台湾の大学に留学していた。明るい平田さんの「イチャリバチョーデー」(沖縄でいう、一度会えば皆兄弟)に惹かれた陳さんは、「マラソンで交流しよう!」とすぐに意気投合した。
既に台湾とのスポーツ、文化交流に携わっていた平田さんにとって、台湾大脚Y長砲協会(台湾のランニングクラブ)の代表だった陳さんは格好の相手だった。出会ったその年、第20回NAHAマラソンに台湾から150人のランナーが参加(平田さんはNAHAマラソンに第2回から19回まで連続出場していた)。翌年には台湾のマラソンに、沖縄から150人が参加し、マラソン交流が始まった。
学生時代を陸上競技で過ごし、社会人になってから再び走り始めた平田さんに対して、陳さんは42歳で健康のためにランニングを開始。最初は400mも走れなかったが、1年後にはハーフマラソンを、その後フルマラソンへと距離を延ばしていった。二人はNAHAマラソンを通じて、さらに周りを巻き込んでいく。2010年に台湾で開かれた第1回高雄国際マラソンはNAHAを視察して感激した高雄市の関係者と共に作り上げられたものだ。マラソン友好の輪をきっかけに、日本と台湾の文化、芸能、経済交流を今以上に大きく発展させていくのが、ふたりの夢だ。
ひらたひさお●沖縄の高校を卒業後、台湾の大学へ留学。第2回NAHAマラソンに出場し、以来19回大会まで連続出場。沖縄と台湾のマラソン交流を牽引。沖縄県ランナーズクラブ連合会副会長。
チェンチュアンナン●42歳から健康のために走り始め、フルマラソンに出場するまでになる。貿易業を営み、日本との行き来は多く、日本の大会にも仲間を率いて出場。NAHAマラソンに倣った高雄国際マラソンの生みの親。沖縄・台湾交流振興会台湾代表。
盲目の市民ランナーから多種目で世界と戦うパラリンピアンに
和田 伸也さん(39歳・大阪府茨木市)
9月のリオデジャネイロパラリンピックでは1,500mからマラソンまで3種目に出場、その全てで入賞を果たした。
「今年で39歳ですが、走り始めてからは10年。まだまだ伸びしろがあると思っています」
中学校からラグビーに打ち込んだが、網膜色素変性症により、高校2年で断念。大学時代には完全に視力を失った。走り始めたのは29歳の年、視覚障害者と健常者が共に走るクラブ「賀茂川パートナーズ」を知ったことがきっかけだ。練習会に参加するようになると、グングン走力を伸ばし、2008年の福知山マラソンではサブスリーを達成。日本盲人マラソン協会の強化指定選手となった。
パラリンピックでは、マラソンが弱視の選手と合同レースで行われることから、より上位を目指してトラック競技にも挑戦。2012年ロンドン大会では全盲クラスの5,000mで銅メダルを獲得した。現在は800m(2分8秒)からマラソン(2時間33分46秒)まで、全盲クラスの日本記録を5つ保持する。
これほどのスピードを持つ和田さんだが、全盲のためひとりでは走ることができない。通勤電車の中などで市民ランナーの伴走者たちとメールで連絡を取り、スケジュールを調整しながら月間500kmを走り込んでいる。
「今までに一緒に走った伴走者は100人以上です。私自身もフルタイムで働いているので、世界大会へは市民ランナー代表の気持ちで挑んでいます。これからも伴走者と共に、東京パラリンピック出場を目指して走り続けます」
わだしんや●網膜色素変性症により、関西大学3年生の時に視力を失う。2006年から走り始め、翌年の福知山マラソンを3時間7分で完走した。その後、日本代表として数々の世界大会に出場。2012年ロンドンパラリンピックでは全盲クラス5,000mで銅メダルを獲得、リオデジャネイロパラリンピックでも3種目に入賞した。800mからマラソンまで5種目の日本記録を保持する。大阪府視覚障害者福祉協会勤務。