2002 RUNNERS AWARD 第15回ランナーズ賞

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2002年 第15回ランナーズ賞受賞者

ペースアドバイザーを生んだミズノランニングクラブのリーダー

福澤潔さん

福澤 潔さん

活動14期目を迎えた「ミズノランニングクラブ」の監督として、ランナーズ誌上でもおなじみの福澤潔さん。「市民ランナーによる、市民ランナーのためのクラブ」結成のため、一般公募により選出された10名のメンバーでスタートしたのは1988年(当時はクラブランバード)。年々活動の輪を広げ、現在は 32名のメンバーで、全国各地のマラソン教室(2002年は22会場で開催予定)や、ペースアドバイザー等を行っている。
「結成当初は何をやればいいのか手探りの状態でした。自分たちの知識や経験をどうやって生かすのか、市民ランナーが本当に望んでいることは何かを考え、試行錯誤を繰り返してきました」
クラブの方向性を考え、その存在意義をメンバーに問いかけながら、常に先頭に立って引っ張ってきた福澤さん。活動が継続、そして発展してきたのはミズノのサポートもさることながら、福澤さんの存在が大きいというのは誰もが認めるところだ。積極的に声をかけ、誰からの相談にも快く応じる気さくな人柄、面倒見のよさから、レースや教室、ツアー、そしてネット上での交流を通じ、全国に福澤ファンは多い。
現在クラブの中心的な活動となっているペースアドバイザーも、もともとは福澤さんが小笠・掛川マラソンで自発的に走友の先導役を行ったことがきっかけ。これをミズノと大会側が理解し、サポートする形で発展し、現在は大会の大きな特徴の1つとなっている。
「周囲の人に声をかけ、コースやコンディションによって理想的なペースを作り、落ちていく人を激励しながら引き上げ、目標達成に導いていく『ペースアドバイザー』であることを大切に、誇りを持って取り組んでいます」
掛川では、13年連続で「サブスリー」のペースアドバイザーを務めている。その陰には、持病の坐骨神経痛の悪化のため、1km7分ペースでも痛みが出る状態で走ったときや、レースの1週間前に次女の真純さんが亡くなるという悲しみの中、笑顔でアドバイスを送り続けたときもあった。
「中断することは簡単ですが、継続することで、自分自身の経験を次に伝えられると感じています。一定の走力レベルを保ち続ける意欲、自分への挑戦でもあります」
フルマラソンのベストタイムは2時間23分19秒。福岡国際マラソンには10回出場している。しかし福澤さんは、現在の自分にどれだけのことができるかが、市民ランナーへの指導、説得力のあるアドバイスをする上で大切だと感じている。
坐骨神経痛のため、自分のレースができないため現在は休養中という。しかし月間走行距離は常に450kmを維持し、年間8大会前後はフルマラソンに出場する。周囲の希望に応えて常に「私設」アドバイザー役として走る。自らが走ることに「意味を持たせる」ため、ただなんとなく走るレースは一度もない。仕事、家庭、ミズノランニングクラブの活動、そして地元では湘南RCという走友会を立ち上げ、仲間とランニングを楽しむ。福澤さんの忙しい日々はまだまだ続く。
「真純の死は、乗り越えられないまま走り続けていくしかないと感じています。その日以来、今できることを精一杯やろう、一瞬一瞬は決して無駄にできない、という想いが一層強くなりました」

福澤 潔(ふくざわ きよし)

1955年神奈川県生まれ。走歴は35年。以後、数多くのフルマラソンに出場し、福知山マラソン優勝、青森―東京間駅伝出場、福岡国際マラソン10回連続出場などの実績を残す一方で、1988年より「ミズノランニングクラブ(当時はクラブランバード)」の一員に。91年より同監督に就任。全国各地で開催される大会でのペースアドバイザーやマラソン教室、練習会など、市民ランナーのためのさまざまな活動に貢献。

今年10年を迎えた出雲路を走る、ボランティア伴走組織

愛走フレンズ

愛走フレンズ

山陰地方随一の広さを誇る穀倉地帯、出雲平野の中央部に位置する出雲市。神話の里とも呼ばれるこの地で、県内最大規模のランニング大会「くにびきマラソン」が開催されている。毎年2月11日(建国記念日)に、ハーフ、10km、5km、3km、2kmの種目で行われ、日本で最初の木造ドーム「出雲ドーム」が会場となる。
昭和56年10月、翌年に控えた島根国体(くにびき国体)の気運を盛り上げるため、くにびきの神が祀られる出雲の「長浜神社」を発着点にして、第1回くにびきマラソンが生まれた(当時の参加者は517名。種目は10km、5km、3km)。年々参加者を増やし、平成4年、第 11回大会には2300人を超えるエントリーを集めた。
その年、出雲市役所にある大会事務局に1本の電話が入った。愛知在住の視覚障害者ランナー、半谷展男さんから、くにびきマラソンに出場したいが、誰か伴走をしてくれる人はいないかという相談だった。それまでこの大会には視覚障害者ランナーの参加はなく、市役所には伴走の経験者もいなかった。しかも、半谷さんの走力は高く、そのスピードについていけるランナーを探すのも難しかった。
一時は参加を断ることも考えたが、事務局が何とかして半谷さんを走らせてあげたいという思いから、妙案を思いついた。1人で10kmを伴走するのは無理でも、5人で2kmずつ、リレー方式で伴走をすればいい。その条件で伴走者を募ると、市の職員からすぐに5人は集まった。職員らは初めて体験する伴走の練習を重ね、当日は半谷さんを見事に完走させることができた。
半谷さんは主催者の配慮に感動し、所属する日本盲人マラソン協会(JBMA)にこの報告をすると、翌年は8人の視覚障害者からの参加申込があった。これを機に、市民ランナーにも伴走のボランティアを募集したところ、多数の申し出があり、平成5年1月、ボランティア伴走組織「愛走フレンズ」が67人の登録者により発足した。愛走のアイはeye(目)にもつながる。
愛走フレンズによる伴走は、スタートからゴールまでを伴走する「主伴走」(1人)と、途中区間のみ伴走する「補助伴走」(1~3人)に分かれる。手作りのガイドブックには、「体調が悪くなった主伴走者は、補助伴走者とすみやかに交代する」「ゴールにはランナーよりも半歩遅れて入る」「補助伴走者は追い越してゆくランナーの動きに注意し、進路をゆずる」などの留意事項が記されている。彼らは大会前に3度の練習会を行いレースに望む。さらに、走力レベルの関係で伴走できない人は、「ガイドヘルパー」にまわる。ガイドヘルパーは、出雲市駅、宿舎、自宅から会場等への送迎、会場での出迎えや見送り、会場での受付、荷物預かりなどが主な業務となる。それぞれが協力しあって視覚障害者ランナーをサポートする精神は、今も受け継がれているようだ。
愛走フレンズは今年のくにびきマラソンで発足10年を迎えた。視覚障害者のリピーターは多く、個人的な交流も芽生えている。

愛走フレンズ

平成4年に発足したボランティア伴走組織。現在の会員数は92人。走力によって「主伴走」「補助伴走」「ガイドヘルパー」に役割分担し、くにびきマラソンに参加する視覚障害者ランナーをサポートする。事務局は出雲市役所スポーツ振興課。

71日間で4961km、米国大陸横断を制した「ウルトラマラソンの女王」

貝畑和子さん

貝畑和子さん

6月15日から8月25日の71日間でアメリカ大陸4961kmを走破する「ラン・アクロス・アメリカ」。1日平均70~80kmという、決められた距離を時間内で、しかも休日なしでクリアなければならない過酷なレースだ。
このレースで、世界中から集まったウルトラマラソンの強豪の中で貝畑和子さんは奮闘、総合成績で5位、そして見事女性部門で1位に輝いた。このようなタフネスぶりを聞くと、誰もが「さぞかし幼い頃から走るのが速かったのだろう」と想像するであろうが、実際の貝畑さんは幼い頃から身体が弱く、走ることとは無縁であったというから驚きである。
「今でこそ私は元気な身体ですが、実は小学校から高校までは腎臓を患っていまして、お医者さんからも体育の授業は参加しないように言われていたんですよ」
他の学生が元気に身体を動かしている脇で、ずっと指をくわえて見学する日々が続いた。その後20歳で結婚、子どもも誕生したが、長男は生まれながらにして病弱、そして次男は白血病のため7歳で逝去。
「自分も病気に勝ちたい」、「子どものためにも胸を張って『元気なお母さんだよ』
と言えるようになりたい」――。
家事、育児の合間を縫ってできるスポーツは何かと考えたとき、思いついたのがランニングであった。
コツコツと積み上げる努力を惜しまない貝畑さんは2km、5km、10kmと徐々に走行距離を延ばしていく。そしてついに4年後には大阪国際女子マラソンに出場するまでに走力がついていた。現在でも大阪国際女子には16回連続して出場を続けている。
さらに持ち前のチャレンジ精神でフルマラソンだけではなく、さらに長い距離にも挑戦、数々のウルトラマラソンやそれ以上の超長距離に出場、多くの功績を残すようになった。特に1994年にはギリシャ~アテネ間で開催される246kmのレース、スパルタスロンに参加、35時間55分でゴールし、日本人女性として史上3人目の完走者となった。また1999年には盲人ランナー・宮本武さんを伴走しながら、北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬までの日本列島 3100kmを縦断する走り旅に挑戦。励まし合いながらゴールを目指し、見事完走を収めた。
貝畑さんはどんな長い距離走っていても「決して苦しいと思ったことはない」といい、どんな状況にあっても常に「楽しんで走ること」をモットーとしている。それは彼女自身が若かりし頃、満足に運動ができなかったことを思うと、「今こうして元気に走れていることだけでも幸せである」と思うからだ。ときにはウルトラマラソンのエイドステーションをサポートしたり、盲人ランナーの伴走を買って出るなど、自分が走る以外にも、常に周囲のランナーにも気を配る。
身体が弱くても、ハンディがあっても意志と熱意があればいつでも、どこでも目標に近づくことができる――貝畑さんはそのことをランニングという舞台で見事体現してくれた。家族や自然をこよなく愛する貝畑さん。今日も五体満足であることに感謝しながら走っているに違いない。

貝畑 和子(かいはた かずこ)

1953年新潟県生まれ。体力増進、健康のために30歳から走り始める。以後、急速に力をつけ、大阪国際女子マラソンは1987年の第6回大会より 2002年の第21回大会まで現在16回連続の参加。フルマラソンだけでなくサロマ湖100kmや四万十川ウルトラマラソン、スパルタスロンやサハラマラソンなどのウルトラマラソンに出場、好成績を残す。1997年と98年にはIAU100km世界大会の代表にも選ばれている。今や国内だけでなく、海外にも活躍の場を広げる21世紀の「ウルトラマラソンの女王」である。
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