2010 RUNNERS AWARD 第23回ランナーズ賞

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2010年 第23回ランナーズ賞受賞者

沖縄屈指の経済人はマラソン活況の仕掛け人

比嘉良雄さん(74歳)

比嘉良雄さん(74歳)

「人を巻き込むときは、大ボラでも良いからユメを語るんです。楽しそうなこと、面白そうなことが想像できるように。で、お金は率先して集める、使う。自分の腹を肥やしたら人は動きません」
 県を代表する経済人であると同時に、沖縄市民ランニング界の中心的存在としてムーブメントを起こしてきた比嘉さん。「走りの哲学が競技から楽しみへと変化した」時代の流れを感じた比嘉さんは、第2回NAHAマラソンをランナーとして完走、翌年、青年商工会議所のメンバーを中心とした32名を率いてニューヨークシティマラソンに参加した。「1日2箱たばこを我慢すれば、2年に1度は世界の好きな場所にいける」と「沖縄地球を走る会」を結成すると、会員はあっという間に増えていった。
「沖縄県ランナーズ連合会」発案も同じころ。副会長として運営資金の捻出に奔走し、グラウンドや公園の整備を自治体に掛け合うなど、県のランナーがwin-winとなれる運営によって加盟クラブは年々増加。現在69クラブ、約1500名が所属する。連合会は今や、「人口あたりのフルマラソン出場比率全国1位」という沖縄市民ランニング活況の中心的な役割を担っている。
「周りを巻き込み、輪を広げていく」という比嘉さんに触発された人は数知れないが、集大成は「日本列島さくら駅伝」。さくら前線を追いかけて沖縄から北海道までをたすきリレーするアイデアは、 NHK列島リレーニュースをはじめ各メディアにとりあげられ、全国に反響が波及した。「飛行機でかけつけてくれた走友、地元ランナーの伴走や町を挙げての応援で成し遂げられた。完走祝賀会では、人目をはばからず涙しました」
 74歳となった現在、第一線は後進に譲ったものの、やりたいことはまだ尽きない。「沖縄の高校駅伝を強くしたい。県が一体となって盛り上げる体制を作りたいですね。そうすれば、子どもたちの『自分も走りたい』という憧れにつながっていくから」

継続は力なり25年間休まず走り続けた

澁谷信さん(70歳)

澁谷信さん(70歳)

「お客様の顔を見たら、まず明るくニッコリ笑おう」
 69歳で職を退くまでの多くを、営業職として勤めた澁谷さんのモットーだ。そのためには、
「つねに心身ともにベストコンディションでなければ務まらない」と考えたことが、走り始めたきっかけだった。そのうち、気がつけば毎日休まず走っていた。練習日誌を見返すと、ロサンゼルス五輪の翌年、佐々木七恵選手が東京国際女子マラソンで優勝した1985年の7月1日から続いているので、実に25年になる。毎朝4時に起きておおよそ1時間走り、風呂で汗を流して十分な食事をとることで、
「ヨシ、ヤルゾ」と、充実した気持ちで職場に向かうことができた。
「毎日走り続けられたのは、周囲の支えもあってのこと」だという。湯沸かし器のない頃から、早朝にお風呂を沸かし、健康に配慮した食事を作り、大量の洗濯物を洗い続けてきたのは奥様の陽子さんだ。しかも出産以外は大きな病気もせずに家庭を守り続けてくれたことで、心おきなく走りに出ることができた。
「家族みんなが息災でいてくれた。そうしたらあとは自分次第ですから、これは走らないわけにはいきませんよ」
 とはいえ、新潟という雪国では、冬季は雪に見舞われる。とくに、転勤で暮らした長岡市での9年間は、深い雪が行く手を阻んだ。
「家の軒先ほどまでに積もり、路面は融雪パイプで溶けた水で水浸し。そこを長靴でジャブジャブと走っていくんです。しんどかったですねぇ」
 手製の日誌には、ひたむきにランニングと向き合ってきた日常が書き綴られている。勤めていた銀行の用紙に細かく項目割りされた25年分の日誌は、B4サイズで300枚に及ぶ。この日誌に注目したのが有吉正博先生(東京学芸大学教授)だ。有吉先生が主催する新潟・越後湯沢での走り込み合宿に、澁谷さんが参加したことから親交が始まって、25年になる。現在日誌は有吉先生の研究室で、研究の重要な資料として調査が進められている。
「この日誌から、なぜ休まずに走り続けられたのか、ということを読みとることで、市民ランナーがより安全に、効果的なランニングライフを送るためのヒントが得られるのではないかと考えています(有吉先生)」
 有吉先生の勧めもあって入会したランニング学会に出席し、書籍や雑誌からも知識を得て、補強のための筋力トレーニングも、手製の道具を使いつつ毎日実践中だ。今はスポーツセンターのトレーナーの指導を受け、身体のバランス向上にも励んでおり、ランニングへの情熱は冷めることがない。
「誰かが見ているわけではないのですが、常に自分自身を客観的に見ている自分がいる。間違ったことをしたり、手を抜いたりするのは、自分自身が気持ちが悪いんです」

障害者と健常者が共に走る歓びを響かせる

アキレストラッククラブジャパン

アキレストラッククラブジャパン

 アキレストラッククラブジャパン(ATCJ)は、ニューヨークに本部を置く国際走友会の日本支部である。
障害とともに生きるランナーとサポート健常ランナーが「協走」の絆で結ばれ、心響きあう「響走」の歓びを分かち合う。アキレストラッククラブが担ってきたそのようなランニングビジョンの 第一の特色は、障害の種類や程度を問わないヒューマニティーにある。
 視覚、聴覚、知的、肢体、脳性まひ、サリドマイド、車いすなど「あらゆる」障害者に寄り添って、協走と響走の妙味を積み重ねる。そのメンバーの顔ぶれは実に多様だ。
 目が見えなくて耳も聞こえない、車いすで言語も不自由といった重複障害のランナーがいる一方で、パラリンピックのマラソン金メダリストが2人(柳川春己さんと高橋勇市さん)もいる。NYCマラソンの障害チャレンジャーも、定期練習会の代々木公園コースを歩いて1周するのがやっとというウオーカーも、自らは走らずに車いすから笑顔で参加という重い障害のウォッチャーも、みんなみんな仲間だ。
 健常者と障害者の間はもとより、障害者どうしの間にも、垣根は一切ない。障害の有無、程度を超えて、同じ人間。同じランナー。思えば、当たり前のことなのだが、こうしたユニバーサルデザインの本格的な実践は、日本で先進的な試みでもあった。
 毎年のNYCマラソン参加にクラブ独自のツアーを組み、欧米各国の障害者ランナーと交流する。あるいは香港、大連などの大会に参加し、さらに国際視覚障害者援護協会のケアを通じて、アジア各国の障害ランナー、障害留学生との親睦を深めてもきた。
 障害走者の自立(代表は2年任期で障害走者から互選される)と健常サポート走者の善意が運営の両輪です。クラブの年中行事、5月の「アキレスふれあいマラソン」は、友好走友会や障害者家族の協力にも支えられ、仮装コンテストを交えて楽しく盛り上がります。
 クラブ名の由来であるギリシャ神話のアキレスは、かかとに弱点を持つ俊足の英雄であり、ホメロスの叙事詩『イーリアス』を彩る主人公ですが、こちらATCJのアキレスたちもまた、それぞれにランニング人生の叙事詩を生きている。

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