2012年 第25回ランナーズ賞受賞者
市民ランニングの普及、発展に貢献した人物、団体などを表彰する第25回ランナーズ賞の受賞者を称える授与式が、
2012年11月30日(金)ウェスティンホテル東京にて開催されます。
1988年の第1回以来、昨年までで75の個人・団体が受賞。今回は、桜井勝延さん、かすみがうらマラソン兼国際盲人マラソンかすみがうら大会、鏑木毅さん、アトミクラブ、会田光一さんが「ランナーズ賞」に輝きました。
選考にあたって
今回でランナーズ賞は25回を迎えることとなりました。近年、ランニングブームといわれておりますが、ブームとは一時的現象でせいぜい5年・10 年の世界です。ランニングはいまや日常生活と並んで当たり前のように生活文化となっているというのも衆目の一致するところであります。そんな中でランナーズ賞はランニング界におけるノーベル賞、アカデミー賞ともいえる「走る人々」の憧れとするところとなりました。
その証拠として昨年の推薦が28件でしたが、今回はなんと62件にもなり大変な選考事情となりました。
選考は事務局(アールビーズスポーツ財団)において9件に絞られ、後は7名の選考委員会に託されたのですが、選考の基準となる、継続性、先進性、アカデミック性、独自性、社会貢献、チャレンジ、話題性、ネットワーク、奉仕精神、人間性の10項目のそれぞれに劣るところなく、どなたが選考されても良いというレベルのまったく横一線のなか、個人、グループ、大会の情況も認識しながら、いかに突出しているかが論議されました。
今回はランナーズ賞設定 25周年という記念すべき節目であることから、アールビーズ社より授賞数の増加をいただき、その結果、5件の推薦の方々が選考されました。選考の経過につきましては、私がここでコメントするには失礼と思われるほどの高レベルの内容でもあり「受賞者の横顔」をご参照ください。
なお、今回から選考委員会に福田六花さんが加わられ、より現場の意見が反映されることとなりました。
選考委員会 委員長 佐々木 秀幸
南相馬市の復興を、毎朝走りつつ考える
福島県南相馬市
桜井勝延さん(56歳)
福島県南相馬市市長。東日本大震災。市長一期目に東日本大震災が発生し、以後、地震、津波、原発事故という、世界でも類を見ない三重被災にさらされた南相馬市。桜井さんは震災2カ月後、以前から日課だった8kmの早朝ランニングを再開し、走ることで培った気力と体力で市長として復興を牽引した。その姿は南相馬市民に前へ向かって進んでいく力を、全国の市民ランナーにはランニングの持つ力を再認識させ、大きな勇気を与えた。
中学時代は駅伝選手として活躍し、ランニングを再開したのは20年前。酪農に従事しながら月間500kmを走り、フルマラソンの記録を43歳のとき2時間48分まで縮めたスピードランナー。「ふくしま駅伝(市町村対抗福島県縦断駅伝競走大会)」に出場し、実業団や箱根駅伝出場選手に交じって走った経験もある。福島県地域の社会体育の発展にも大きく貢献。「福島に強い長距離選手を育てたい」と「野馬追ランニングスポーツ少年団」を立ち上げ、もう15年近く地元の小中高生にランニングを指導している。元祖山の神・今井正人選手をはじめ、幼少から交流のあるマラソンランナーも少なくない。
自らランニング大会を走ることで復興のメッセージを全国へ発信したいと、2012年の東京マラソンを「心ひとつに 南相馬の再興を」のタスキとともに4時間9分で完走。キルギス国際マラソンに市から選手を派遣するなど、マラソンを通じた国際交流にも取り組んでいる。ランナーとしての経験から、身体を動かせる場所を取り戻していくことが復興に取り組む上で大切だと考え、校庭や運動場の除染を推進。震災により中断していた南相馬市雲雀ヶ原陸上競技場の改修落成式を夏に迎え、9月には市内の体育大会が2年ぶりに開催された。12月2日には同競技場で、昨年中止となった「野馬追の里健康マラソン大会」を復興祈念大会と位置付け開催。自ら実行委員長を務め、ハーフマラソン出場を予定している。
福祉と環境の両輪で走るフルマラソン
茨城県土浦市、1991年第1回大会開催
かすみがうらマラソン 兼 国際盲人マラソンかすみがうら大会
参加者2万5000人規模のマンモス大会として、全国的に認知度も高い「かすみがうらマラソン 兼 国際盲人マラソンかすみがうら大会」。茨城県土浦市制施行50周年を記念して1991年第1回大会が開催され、盲人マラソンが併催されたのは1995年、第5回記念大会から。
企画検討部会長の飯山孝之さんは「当時、新たな取り組みとして福祉面を打ち出す大会を開催したい、という提案から日本盲人マラソン協会を設立された杉本博敬さん(第6回ランナーズ賞受賞)に相談したところ、『ぜひ実現して欲しい』との意を受け、盲人マラソン大会が開催されました」。もっとも苦労したのは、伴走者と、盲人を安全に会場へ誘導するガイドヘルパー集めや、伴走ボランティアバンク(現在、100人以上が年間登録)の設立だったという。
翌年第6回大会は「世界盲人マラソン大会」と銘打ち高円宮、同妃両殿下をお迎えして開催。この大会を、国際視覚障害者スポーツ協会(IBSA)が視察して高評価を得て、以来、IBSA公認の国際盲人大会として併催されるようになった。2010年第20回記念大会からは、車いすマラソンも正式種目に加わり、より福祉を身近に感じる大会づくりに邁進している。
また、開催当初から「甦れ、霞ヶ浦 水はスポーツの源」をスローガンに市民レベルで環境問題にも向き合ってきた。エントリー料の一部を霞ヶ浦の水質浄化啓発運動基金として、さらに5回大会からは盲導犬育成運動を展開し、助成金を3団体に寄付。それによってランナーも、走ることでの社会貢献や環境と福祉への意識の高揚につながる。
大会実行委員長の中川清土浦市長は「地元住民の大会への理解や愛情は深く、盲人ランナーが懸命に走る姿を見て、勇気をもらっています。盲人も健常者も同じ。『体験する福祉』『ノーマライゼーションの実践』をテーマに、メッセージを発信していきたいと思います」
トレイルランの普及を地方自治体の力に
鏑木毅さん(44歳)
1997年、28歳のときに山田昇記念杯登山競争大会での初出場、初優勝を機にトレイルランの世界へ。以降、日本山岳耐久レースや北丹沢12時間山岳耐久レースといった国内のレースを次々に制覇。2009年4月に群馬県庁職員を辞してプロ・トレイルランナーの活動に専念。同年8月に行われた世界最高峰のトレイルレース「UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)」では日本人過去最高位の3位入賞を果たした。また、プロ・トレイルランナーとしての再スタートと同時に普及活動を本格化。現在は各地で講習会や講演などを行っている。
「トレイルランに携わって15年。今から5年ほど前までは知る人も少ないマイナースポーツの世界をひた走ってきました。この素晴らしい世界をどう知らしめ、共有しようか? その一念が原動力でした」
今年5月には、UTMBの姉妹レースとして国内初となる100マイルレースUTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)の大会実行委員長として富士山を囲む10の市町村と連携。大会を成功に導いた。
「UTMFの意義は、世界のスタンダードである100マイルレースの自国開催にあります。国内の壁が取り払われることで、今以上に国内におけるトレイルランの楽しみ方や裾野が広がり、文化として成熟することを期待しています」
さらに今年、2009年から群馬県で主催している「神流(かんな)マウンテンラン&ウォーク」が平成24年度の過疎地域自立活性化優良事例に挙げられ、総務大臣賞を受賞した。
「方向性が社会に認められたという意味で、意義深い出来事。何より頑張っている仲間の励みになります。少子高齢化の地方は疲弊しています。トレイルランの普及を通じて地方に活力を、と思っています」
『楽しむ勇気を』は心身とも苦境に立った己を奮い立たせる鏑木さんの座右の銘。選手として、普及者としても、ゴールはまだ先のようだ。
29年間、無償で練習会を開催し続けた
アトミクラブ
1984年4月に篠原義雄代表(67歳)を始めとする10名で立ちあげられたアトミクラブは、29年間に渡り、篠原さん、関田善作さん(63歳)等が中心となり無償で練習会を運営してきた。
「発足当時、記録を狙うランナーが集うクラブには、トレーニング中に会話をしてはいけないなど、厳しい規律がありました。自由に楽しく走力向上を目指すクラブを作りたいと思ったんです(篠原さん)」
週に1回、練習会を開催するようになると噂が広がり、参加希望者が増加。当初はサブ3など実力派ランナーのみが参集していたが、1990年代半ばから走力別にグループを作って走るようになると、規模は一気に拡大。現在の会員数は450名、1回の練習会では100~150名が参加する。年齢は20代から70代まで、フルマラソンの記録は2時間20 分台から4時間台までと幅広い。視覚や聴覚に障害を持つ人も積極的に受け入れ、パラリンピックに出場した高橋勇市さんもその1人だ。活動の中心となる毎週木曜の練習会では、1人で取り組むのが困難なスピードトレーニングを実施。2007年からは、より走りやすい環境を作るために、代々木公園・織田フィールドを貸し切るようにした。
「今の形ができたのは、走力や年齢の垣根を越えた仲間と記録を狙って楽しく走りたい、という一心からです。苦しいトレーニングも皆で取り組めば乗り越えられると思うのです。HPや会報では、自己ベストを出した人やレースで好順位だった人を紹介します。会員の頑張りを伝えることで、皆が良い刺激を受けられると思うんです」
“ 監督” の名で呼ばれる篠原さんは
「記録という目標を持って走り、満足感や達成感を得ることは、閉塞感漂う社会の雰囲気を破るために意義があることだと考えるようになりました。あとは若い人が高齢の人を見て、 自分も生涯ランナーでいたい、 と思ってもらいたい。だから会話もたくさんして欲しいんです」
マラソンは胃ではなく脚で走るもの胃の全摘出を乗り越え挑戦は続く
東久留米走友会会長 会田光一さん(81歳)
今年で設立20周年を迎えた東久留米走友会の会長として、今も毎週土曜日の練習会を率いる。フルマラソン挑戦は45歳のとき、佐倉マラソンを3時間30分で完走。ホノルルマラソンは25回も完走。さらに68歳の時、マウイマラソンで年代別優勝を果たすなど、俊足ランナーとして鳴らした。しかし、77歳の時、進行した胃がんが見つかり、ランナーとしては致命的とも言える胃の全摘出。それでも、2年後にはつくばマラソンで復活を果たすと、80歳になった昨年は、サロマ湖ウルトラマラソン50kmを完走した。
「胃がんが見つかったときはショックだったよ。医者から手遅れかもしれないと言われ、もう仲間に会えなくなるんじゃないかと思ってさ、夜一人で泣いたこともあったよ。でも、絶対にまた走るんだ、病気になんか負けてたまるか、という一心だったよ」
術後は、じっとして居られず、10日後には練習場所に姿を現し、仲間を驚かせたことも。ただし、胃を全摘出した影響もある。
「昔のようには食べられなくなったし、走るペースもせいぜい1km7分くらい。それでも月200kmくらいは練習しているよ。昨年のサロマ湖では、脚は大丈夫だったんだけど、終盤から空腹感に襲われてしまって。でも、制限時間5秒前、仲間の声援を背にゴールしたときは最高だったよ」
「マラソンは面白いよ。最近は仮装やファンランの参加者も多い。色々な楽しみ方があってよいと思う。だけど、練習もほとんどせずに参加するのはどうかと思う。自分も関門に引っかかるようになったら、大会に出るのはやめようかなと。まだ不思議と関門を通過しちゃうけどね。やっぱりコツコツ練習あるのみだよ」
これまでに参加してきた大会は485にも上る。「500大会まではいきたいね」目標も近いうちに達成されそうだ。