2015年 第28回ランナーズ賞受賞者
市民ランニングの普及、発展に貢献した人物、団体などを表彰する第28回ランナーズ賞の受賞者が決定しました。
1988年の第1回以来、昨年までで87の個人・団体が受賞。
今回は、小嵐 正治さん、関崎 豊さん、智琉(さとる)さん、越智 利国さんが「ランナーズ賞」に輝きました。
選考にあたって
吐く息も白く、走り終わって仲間と食べる鍋もお酒も美味しい季節になりました。第28回ランナーズ賞を受賞された皆さん、おめでとうございます。多数の応募の中には、ご高齢で頑張って周りに元気を与えている方、ランニングで病気を克服した方、走ることで社会貢献をされている方等、沢山いらっしゃいました。改めてランニングと共にある人生の豊かさや、その世界の広がりを感じています。その中から今回の受賞者は3組でした。
越智利国さんは51歳。サロマ湖100kmを1回大会から30年連続で完走されています。54人でスタートした1回大会の時は22歳。彼は自分の原点に還る気持ちで毎年参加しているそうです。選考委員の中には「制限時間13時間の厳しさの中、完走するだけでなく今年も9時間38秒で走っていることが凄い」と感嘆する人も。ぜひあと10年、いや20年がんばってください。
小嵐正治さんはスポーツ障害が専門のドクターで、日医ジョガーズの代表でもあります。ご自身もなかなかのランナーですが、多くのランナーに役に立つ調査・研究は、痛みに苦しむ人を一人でも減らしたいという、小嵐さんの信念から生まれるものです。優しいお人柄が滲み出たお顔や言葉に、癒される人も多いと推薦文にありました。これからもランナーの治療の父として、宜しくお願いします。
そして関崎豊さん、智琉(さとる)君親子です。お揃いの黄色いTシャツを着て、年間約30の大会で走っています。菜の花の香りが人を幸せにするように、二人の周りにはいつも人がいっぱい。推薦者の伊野建治さんは「ビリでも遅くとも決して諦めない。(中略)彼らはマラソンが誰にでも開かれたスポーツであることを教えてくれる」と。関崎さん親子に影響を受けて、知的障害や自閉症の人が走り始めています。
今回は三者三様の受賞でしたが、共通しているのは「勇気」。継続する勇気、再チャレンジさせる勇気、諦めない勇気、そんな彼らに乾杯。さぁ、私たちも勇気を持って進みましょう。
選考委員会委員長 増田 明美
ランニングドクターの生みの親はマラソン完走335回、総走行距離12万km
小嵐正治さん(69歳・埼玉県新座市)
1976年に九州地区で「医師走ろう会」として発足し、1983年に全国組織として医療支援活動の輪を広げた「日本医師ジョガーズ連盟(第8回ランナーズ賞受賞)」。2007年には市民ランナー人口増加のきっかけとなった第1回東京マラソンにおいて、およそ100人の医療従事者を集めてコースを走り、ランナーの安心安全の確保に陰ながら尽力した。
その後「ランニングドクター」は市民マラソン大会に欠かせない存在となり、今では年間34大会で医療支援ボランティア活動を継続。その中核を担っているのが、代表理事を務める小嵐正治先生だ。小嵐先生は、本誌ランナーズでもおなじみの整形外科医であり、熱心なランナーでもある。その走歴は、これまでにフルマラソン202大会、ウルトラマラソン133大会、今年7月までの総走行距離が12万kmというから驚きだ。
小嵐さんが本格的に走り始めるようになったのは30代半ばの頃。
「単身赴任を繰り返すうちに下っ腹がぽっこり。『これはいかん』と走り始めました」
雨が降ったり、大きな手術を控えたりする日以外は毎日のように10km。『走った距離は裏切らない』という言葉が示すように、どんどん走れるようになり、あっという間にハマっていった。
日医ジョガーズとしての活動を始めたのは1990年、44歳のとき。当時代表だった故・萩原隆先生の意志に賛同して入会。
54歳のときには「自分の時間を大切にしよう」と考え、時間的制約が大きい大学病院を退職し、自宅近くの整形外科病院に移った。通勤ランや昼休みを活用して走れるようになり、月間走行距離500kmをキープできるようになった。
「60歳を境にマラソンを3時間台で走ることが次第に難しくなっていきましたが、たとえ以前のようなスピードで走れなくても、走った後は心身が軽やかになります。最近ではタイムより体調管理に気を配るようになりました。少し肩の力が抜けたことで、これからは日医ジョガーズの理念でもある『遅いあなたが主役です』を地で行こうかな、と考えているところです」
こあらしまさはる●1946年生まれ。2008年からNPO日本医師ジョガーズ連盟代表理事。各地のマラソン大会にてドクターランナーの活躍の場を創出、マラソン大会での安全確保と事故防止に尽力している。走歴30年の市民ランナーであり、今でも年間10大会以上のフルマラソン、ウルトラマラソンに出場。またランニングのことを知る整形外科医として、市民ランナーへのアドバイスや著述でも活躍。
発達障害の息子とその父 レースで一緒に味わった達成感は120回
関崎 豊さん(43歳)、智琉(さとる)さん(12歳)
(長野県東筑摩郡麻績村)
「遅いということは、我々親子にとってはマイナスではないんです。一緒に走っている時間が長くなり、苦しさや達成感をより共有できる。誰よりもレースを楽しんでいるといえるかもしれません」
発達障害を持つ智琉さんに自尊感情を持ってほしいと小学校2年生のとき初めて2人でランニングの大会に出場。以降、ケースワーカーとして役場に勤める豊さんが休みの週末に2人で大会参加を重ね、約5年間で出場した大会は120を超える。
2012年には障害のある子を持つ父親が中心の、「みんなが生き生き暮らせる社会を」と走ることでメッセージを伝える団体「Run4u」に加入。チームの黄色いTシャツを着ながら各地の大会に参加し、メッセージを投げかけている。
「発達障害の子どもはほめることが大切だと言います。ですが、何もしていないのにほめることはできない。2人で何かに挑戦したいと考え、ランニングであれば一緒に走れるではないかと思って、2010年にまずレースに出てみることにしました。幸いなことに息子も走ることを好きになってくれたので、今まで走り続けています」
当初は3kmなどが中心だったが、走れる距離が徐々に延び今年3月には初フルである伊豆大島一周マラソンを8時間9分8秒で完走した。
「10時間制限なので、大部分を歩くことになっても行けるかなと思っていました。でも息子は35kmぐらいになっても元気で、後半も走ってくれました。この大会は我々が出場したちょうど100レース目で、息子の小学生としての最後のレースでもあったので、よい記念になりました」
「息子は6年生のときに走った距離が同級生の中でダントツ1位で表彰を受けました。自分に自信を持てるようになってきたのではないかと感じています。元々は筋力も弱かったのですが、身体も強くなり、20kgの砂利袋も持ち上げられるようになりました。レースに出場しない休日に2人で行う我が家の敷地内の整備作業でも大いに力となってくれています。」
今年9月には城内坂ウルトラマラソンで50kmを完走。2人で出場したレースは120を超えた。次なる目標は?
「レースで走った合計距離が約800kmなので、まずは200レースと1,000kmを達成したいと思っています。いずれは100kmにも挑戦したいと考えています。息子はこれからどんどん成長しますので、併走するためには私もがんばらないといけませんね」
せきざきゆたか、さとる●発達障害がある息子に体力と自信を持たせ、また一緒に走ることで親子の時間を持つため、父親である関崎豊さんが、息子の智琉さんが小学校2年生になった時からランニングを開始。以降、中学校1年の現在まで7年間、120のランニング大会を完走している。障害を持つ子どもとその父親が「二人三脚」で走り、「ランニング」に挑戦する姿は、同じような境遇の人たちに勇気を与えている。
サロマ湖100kmウルトラマラソン 22歳の時から30年連続完走
越智 利国さん(51歳・東京都)
6月28日(日)に開催されたサロマ湖100kmウルトラマラソンで9時間38分3秒。「連続完走数」を、「大会開催数」と同じ30に伸ばした。
1986年の第1回参加時は22歳。54人の参加者中、最年少だった。
「私はフルマラソンを完走したことすらない。周囲からは『何か間違ってきてしまった若者』と思われていたかもしれません。それでも10時間58分33秒(10位)で完走することができて“なかなかやるな”と認めてもらえたように思えたことが、すごく嬉しかったです」
以来、サロマを走ることが自身のランニングライフの中心となった。
「昔から特別に得意なことがあるわけでもなく、高校卒業後は今で言うフリーター。悶々としていた時期に走り始めたのですが、ランニングは「走る」も「止まる」も、全て自分の意思次第。続けることで精神的に自立していける気がしたのです。そんな時にランナーズで読んだのが、第1回大会の出場者を募集する広告。そのページが頭蓋骨の内側に張りついたように、頭から離れなくなりました」
第1回大会を完走できたことが自信になり、それまで自分なりに行っていたトレーニングの内容が間違っていなかったことも分かった。それで当時、世間的にも注目されていた“フィットネス”の道に進むことを決めたという。
ストレングスコーチとしての越智さんは「50歳からは筋トレ」を提唱。市民ランナーにも「マシンを使ったトレーニング」を推奨している。
「私自身、週2~3回マシンを使った筋トレを30分前後、行っています。また専門的ストレッチも20~60分、週に3回以上行います。こうした積み重ねが30年連続完走に重要な役割を果たしています」
30年走ろうと思ったのではなく、目の前の一回一年を大切にしてきたら、結果として積み重なったという感覚。『サロマを走っている100kmは自分の人生にとって大切な時間である』というシンプルなもの。だからこそ毎年、万全の準備をして臨んで、自分自身が納得できるレースをしたいという。
そんな中で一番完走が危ぶまれたのが今年。5月に風邪の治療の処方薬の副作用で胃腸の調子を大きく崩して十分な練習ができず、5月の月間走行距離は例年の3分の1程度の125kmだった。
「それでも筋トレやレース6日前の4時間走を行い、レース本番では80km過ぎに大好きな『辛いけど、まだいける』という、感覚が湧いてきました」
おちとしくに●1964年生まれ。ウルトラマラソンの先駆け的大会である「サロマ湖100kmウルトラマラソン」を第1回から、ただ一人30年間全て完走を果たしている。特に30回目となった今回は事前の体調トラブルで十分なトレーニングが積めないながらも無事完走、自らウルトラ完走の確実な取り組みを実証した。健康運動指導士、トレーナーとして市民を指導する傍ら、自らの経験も交えウルトラマラソン完走のアドバイスも行う。